2012年2月21日火曜日

日本の地域  五 行動

ここまで述べたことを実現するために、具体的にどのようなことができるだろうか。ここでは案を挙げてみたい。

1      市区町村単位の中間支援組織
地域経営と対話の営みを促進するための着火装置として、市区町村単位での中間支援組織の設立を提案する。この組織は、最近ではまちづくり株式会社や、まちづくりNPOとしても知られている。東北では、県単位で岩手県、宮城県、福島県にそれぞれ復興連携センターがある。いわて復興連携センターでは、「地域住民による地域再生」をミッションとして掲げている[i]。活動内容は、「各種支援、助成情報の一元化と情報発信」、「地域住民のできる、やってみたいの掘り起こし」、「支援とできる、やってみたいのマッチング」、「地域住民による復興計画、復興宣言の作成や政策提言のお手伝い」となっている。
また、福島県いわき市勿来(なこそ)地区では、「勿来まちづくりサポートセンター」が、住民を巻き込んで未来のまちづくりを推進している。[ii]
この組織には2つの役割がある。1つは、プロデューサーとして、地域の事業を育て上げ、価値を発信していくことである。今東北では住民主導で企業再建や新しい事業開発など、様々な取り組みが始まっている。しかし、その事業を進めていくための人材や資金に困っている場合が多い。例えば、企画書の作成や、助成金の書類作成、広報ができる人が欲しいという時に、必要な手助けを得られる場所があれば、非常に心強い味方となる。このように、住民が何かやりたいことがあるときに、必要な手を貸す地域のよろずやとなるのだ。そして、その事業が展開できるように後押ししていく。
2つ目は、ファシリテーターとして、住民の話し合いの場を設け、住民の意見を基に地域の在り方を提言実行していくことである。地域の現状調査や、意見交換会を開催し、住民の意見が反映されるまちづくりをしていく。例えば気仙沼大島では、7080代で独居生活をしている方々が多くいらした。わざわざ介護を頼むほどでは無いが、買い物や通院など日常生活で多少の支えを必要としている。また、日中の時間を一人で過ごすことも多いため、話し相手が欲しいという声があった。こうしたニーズがあることが中間支援組織によって把握されれば、住民の方々と共に何かできることはないかと話し合うことが出来る。例えば、大島に多い空き家を安く貸し出す代わりに、高齢者のお手伝いをしてくれる人を募集しようというアイディアが出るかもしれない。家賃が安く、農地も付き、周りの農家から野菜ももらえるので食べるのには困らないという条件であれば、田舎暮らしをしたいけどお金はないという若い人が興味を抱く。中間支援組織は、こうした話し合いの機会を提供し、新しいアイディアを触発し、プロジェクトの実現可能性を高め、それを実行する際の手足となって動く。
こうした中間支援組織を市区町村ごとに置き、気軽に住民が立ち寄れる存在にする。運営体制としては地域のNPOが中心となる。そして地域に愛着を持ち継続的に関わる人々を核とする。そこに中央官庁や民間企業の経験者などで一定期間関わる人々を呼ぶ。プロジェクト遂行のために財務や法律の知識など専門性を持った人材が必要な場合は、そうした人材を連れてくる。地域リーダーの良き伴走者となるため、NPO、企業、行政が垣根を越えて連携するのだ。こうして住民による自治を促進していく。この仕組みが、今後の地方自治の未来の鍵を握る。








[i] いわて復興連携センター.「設立趣意書」. http://www.ifc.jp/media/about/setsuritusyushi.pdf (参照2012-1-27)
[ii]  東北復興新聞.「まちづくりNPOの可能性 いわき市勿来地区の取り組みにみる 前編」 http://www.rise-tohoku.jp/?p=947 (参照2012-2-21)



2012年2月18日土曜日

日本の地域  四 方策

次に、前述した地域経営による多様性に富んだ日本と、対話の営みによる持続可能な地域を実現し、倫理と規範を創造するための方策を考えていきたい。

 文化的多様性に富んだ地域経営
 地域経営による多様性に富んだ日本を達成するためには、文化的資産の産業化を一層進めていく。その地域が持つ文化的遺産を見直し、それを生かす地域経営を行うことが今後の地域のあり方だ。マキアヴェッリは、「国家を長期間にわたり維持していくには、しばしば本来の姿に回帰することが必要である」と説いている[i]。日本にしか無い価値、技術を、独自の付加価値として海外にも提供していくのである。その場合、ただ日本の文化を海外に売り込めば良いということではない。むしろ日本の文化に依って世界の文化発展に貢献する心意気で発信していく。一例として、国際政治学者の白石隆が編集長を務めるnippon.comという多言語発信オピニオンサイトがある。これは、「日本文化に内在する普遍性を通じて世界のために貢献できるようにしていくこと[ii]」を目指している。そして日本語、英語、中国語、フランス語、スペイン語の5カ国で発信しており、近い将来ロシアとアラビア語も加える予定である。日本が世界の知的発展のために成すべきことは多くあるのだ。
しかし現状の課題として、数多くの伝統文化は後継者不足と、事業としての採算性の厳しさに直面している。そのための施策として、以下の3つが挙げられる。1つは、他分野で経験を積んだ人を積極的にそうした事業に送り込むことだ。東北支援では、被災地支援グッツも作製されているが、現状では被災地支援の文脈で購入して頂いている面が否めない。そうではなく、本当に良い物だから買うという流れをつくる。そのためには、製品の品質向上はもとより、マーケティング戦略や財務的観点を踏まえた経営戦略を担える人間が必要となる。
2つめの施策として、個々の取り組み事例から得られた経験知を集積する機関を設ける。品質を向上させるには、現代の技術と掛け合わせて新しいものを生み出すことや、他地域の文化から学んで取り入れることも必要となる。そうしたノウハウを収集し編集する場をつくり、そこに集まる経験やナレッジを広く共有していく。
3つ目の施策として、こうした地域での取り組みを発展させるための大企業、省庁の後押しを進める。こうした組織が持つ人材、知識、情報のリソースは非常に魅力的であり、事業を拡張していく際には重要な起爆剤となる。
では、東北の将来像としていかなる姿が考えられるだろうか。私が3ヶ月気仙沼で過ごした後東京に戻ってきた時、東京の生活に強い違和感を覚えた。皆せっかちで、様々な欲に支配されているように感じた。それは東北の生活が自然に囲まれ、みんなで一緖に歩いていこうという風土だったからだろう。
そもそも東北は、日本ではなかった。9世紀初頭に坂上田村麻呂が朝廷に命じられて蝦夷討伐を行い、奥六郡にいた蝦夷は朝廷への服従を誓った。しかし、多賀城に拠点は置き朝廷が陸奥守を任じるものの、その後も実質的には陸奥の人々が安倍氏や清原氏などの領主の下でまとまっていた。中世初期は奥州藤原氏が平泉を拠点に栄えた。源頼朝に滅ぼされて以降、豪族や藩主が現れて勢力を築き、徐々に中央との交流が増えていく。江戸時代を経て戊辰戦争に奥羽越列藩同盟が敗れ、明治政府によって社会秩序に組み込まれる。つまり、東北が明確に日本の一部になったのはそう遠い昔のことではない。東北の人々は蝦夷の時代から独立心が強い。そうした歴史と風土が井上ひさしの『吉里吉里人』を生み出したのだ。
 この蝦夷の物語としては、岩手出身の作家高橋克彦の『火炎』『炎立つ』『天を衝く』という蝦夷3部作がある。かつて、朝廷や都の人々は陸奥に住む蝦夷を人でないといって蔑んだ時代があった。会ったこともないのに、親から子へそう言い伝えた差別の歴史があった。これはそうした偏見に屈せず、蝦夷の誇りを持って戦った熱い男達の物語だ。あの時代から1000年余が経ち、今を生きる世代にはそうした思い込みは無い。馬で何十日もかかって都から移動していた距離も、今は新幹線に乗れば半日で着く。今年は平泉が世界遺産にもなった。平泉の達谷窟は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行った際に建てられたと言い伝えられている。阿弖流為から始まり、安倍貞任や藤原経清、清衡などの奥州藤原氏の願いが現代に息づいているのだ。
また私事であるが、2009年から稽古を続けている北辰一刀流剣術は、陸前高田出身の千葉周作が開祖である。江戸で開いた玄武館は江戸の三大道場の一つとされた。最近では大河ドラマの『龍馬伝』や映画『るろうに剣心』の武術所作指導もしている。また震災前までは、少年剣道大会を陸前高田で開催していた。こうした東北に残る多様な文化は、日本のかつてあった文明の姿を留めている。
こうした東北の文化を継承する取り組みの一案として、東北でのオーラルヒストリー事業を実現させたい。前述した様に東北地方は高齢化が進み、今後2030年でそこに住む人口も大きく減少してしまう。その前に、どこにもいるその地区の長老達や語り部の昔話を聞いて回る。そこには生活の知恵、仕事の工夫、人との関係づくり、伝統行事などの様々な無形資産がある。例えば大島では漁業技術発達に多大な貢献をして県から表彰された方や、生涯で赤子を1300人取り上げた助産婦がいたと伺った。それらの昔の人の知恵に現代的な解釈を加え、知的財産として共有するのだ。私がつなプロで行なっていた聴き取り訪問の発展型でもある。この事業を通して、昭和を生きていた世代からのバトンを受け取り、平成を生きる世代へ繋いでいきたい。
また、より大規模な産業の話で言えば、復興の中で今注目されている動きに野菜工場がある。東北の農業再生への解決策として、自治体と大手メーカーが進めている。背景としては、津波で受けた田畑の塩害や、放射能物質による土壌汚染である。食の安全に気をつける消費者と、安心して農業を続けられる仕組みを切望する生産者のニーズにも合っている。これらの野菜工場には二種類あり、部分的に太陽光を利用する太陽光併用型と、全ての光をLEDなどの人工的な光源でまかなう完全人工型である。この野菜工場の運営に、地元で農地の被害を受けた農家が雇用されている。言うなればこうした近代技術と、東北の農民の知恵が結びつくことで、地域独自の発展をはかることができる。つまり工場付属の研究機関として、後継者不在のため廃れそうになっていた東北の農法が集積される場所をつくることがその一手となりうる。それにより伝統的な農法が保存されることは知的財産ともなる。同時にその農民の知恵を工場運営に生かすことで技術向上にも繋がるのだ。
東北は日本の、特に東京に対するアンチテーゼを提出する可能性を持っている。今復興の途上であるが、仙台が東京の様な大都市になれば良いということではない。むしろ東北に来た人々が、普段の自分の生き方を省みる場所になれば良い。東北の歴史と文化に学びながら、東北の風土を生かし、独自の在り方を模索していく。

2 自立と共生による対話の営み
対話の営みによる持続可能な地域をつくるためには、家族、縁者、地域、NPO、政府という5重のネットを構築する。現状において政府の社会保障制度に全幅の信頼が置けない以上、できるだけ政府に頼らない仕組みをつくっていくことが喫緊の課題である。何かあった時、また「国にだまされた」と嘆き途方にくれることのないように、地域単位でのソーシャルマイノリティのケアを地道に進めていく。そもそも社会保障という形で政府からお金を貰ってしまうと、一人一人の自立心が弱くなる。まずは国に頼らずとも自分の生活を維持していく手立てを追求していくべきだ。コミュニティで支えていく仕組みを徐々に強くしていき、将来的には政府の保障の割合を減らしていくことを目指す。
東北においては、復興のプロセスを住民主導で進めていくことがそのための起点となる。地区単位、地域単位での住民会議の場を活用し、地域全体で支える取り組みを考案していく。その動きをNPO、企業、行政が手助けしていく。例えば気仙沼大島でなら、それは通院のための病院搬送ボランティアや、介護を必要とする方のための訪問介護ステーション、大島の誇りを子供に伝える地元教育、地域に関する情報を伝える地域コミュニティ誌かもしれない。そうして生まれてきた構想を、近代精神を生かしつつ成し遂げることが重要となる。
こうした動きを理念として表すなら、それは「自立」と「共生」だ。自立とは、自分の問題を自分で決めて解決していくことである。また共生とは、異なる価値観を持つ他者の存在を認めることである。その根底には、自己への誇りと、他者への尊厳を持たねばならない。地域の問題は自分達の問題であると主体性を持って臨む。そして話し合いの中では意見が異なる相手であってもじっくり話を聴く。そうした対話の場を小さな単位でつくり、少しずつ拡げていくのである。

公的なもののための近代と共生の作法
倫理と規範を創造するために何にもまして欠かせないのは、公的な問題に自らを投じる意志である。確かに、自分の小さな私的な世界で充足していれば、敢えてその圏外に現れ出る必要はない。しかし公的領域こそは、「人々が、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所[iii]」なのだ。そして公的な問題に取り組む機会は、政治家や官僚のみに与えられているのではない。その意志を持った者には、各人に与えられた場所で「日々の要求[iv]」に従うことで、公的領域の秩序形成に貢献することができる。
具体的には、各人が出来る範囲で、自分の地域やNPOの活動に参加することである。平日は本業に打ち込み、夜や休日のみ活動することも可能だ。本業で得た知見を活動に活かすことで、少ない時間でも大きな効果をもたらすことができる。こうした職業上の知識や経験を生かして社会貢献する活動をプロボノという。プロボノとは、ラテン語で「公共善のために」を意味するpro bono publicoの略である。ローマ人は、誰であれ意志と能力がある者はres publica(公的なもの)のために自らの生涯を捧げていた。現代でローマ人のように生きることは難しいが、日常のほんの一部でも自分にできることで公共のために奉仕することはできる。
また、地方で自分の生活圏を築く生き方もある。場所は東北でも、四国や九州でも良い。文化の継承や地域社会の構築に携わりながら、自分が生きるために必要不可欠な衣食住と人間関係をつくっていく。その制限の中で、よりよい生活を営むために努力をしていく。今の20代には、そうした生活スタイルを選択する人々が増えている。ある意味で疎開に似ているが、都市で何か起こった場合でも生活だけはなんとかなる拠点を持つことの重要性は高まっている。そうした人々が文化的発展に貢献し、コミュニティの力を強靭にすることに貢献する。 









[i]  ニッコロ・マキアヴェッリ.『ディスコルシ 「ローマ史」論』.筑摩書房,(2011),457p.
[ii]  原田城治.「多言語発信サイトnippon.com開設にあたって」.nippon.com. 2011-10. http://nippon.com/ja/from-the-publisher/ (参照2012-1-22)
[iii]  ハンナ・アレント.『人間の条件』.筑摩書房,(1994),65p.
[iv]  マックス・ウェーバー.『職業としての学問』.岩波書店,(1936),74p.

2012年2月17日金曜日

日本の地域  三 未来

 では、我々はこれからどこへゆけばよいのか。次に示す絵が、前方の景色の一片でも捉えていることを望む。

 地域経営による多様性に富んだ日本
それは、諸地域の特殊性に着目した文化的発展を、それぞれの地域が独自に推進することだ。皆が単一の成功モデルを追う時代は終わった。これからは、それぞれの土地や風土に根ざした生活の豊かさを求める。まず地域が自立して社会を構成できるようにする。ここでは地域経営と言う概念が鍵となる。そして独立した地域の集合体として、多様性に富んだ日本を目指す。地域活性化や地域経営という言葉を使うと、経済的な発展のみが視野にあるように聞こえるかもしれない。そうではなく、民俗知、自然知、宗教観、さらには歴史や芸術までを射程に入れた文化的な発展を見据えるのだ。寺田の言葉を借りると、「私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである[i]」ということだ。
都道府県ごと、あるいは市区町村ごとに自治体は総合計画を策定している。戦後は教育、衛生、清掃、治安などの社会資本整備を重点に起き、地方公共団体はサービスを提供してきた。現在はそれらが欧米諸国と比較しても高い水準で達成され、次の目標を模索している段階である。今後は、地域に根付く助けあいの気風などの文化資本や、人間関係などの関係資本を含めた豊かさを目指していくことが望ましい[ii]

  2  対話の営みによる持続可能な地域
  また、地域の在り方で見れば、地域単位での共生の仕組みを作っていくことだ。今ある共同体を継続させる仕組みをつくっていく。そのためには、政府による社会保障制度がいつ破綻するか分からない状況で政府に全面的に頼るわけにはいかない。その前に、自発的な取り組みを進めていく必要がある。これまでは支援が必要な人は政府が支えるという発想だった。今後は、家族、縁者、地域、NPO、政府が5重のネットで支えていく形をつくっていく。特に地域、NPOの部分では、今震災復興という文脈で進められている事業を、より一般化して他地域にも展開していくことが効果的だ。
地域単位で発展する日本を実現するには、どのような仕組みが必要だろうか。それは、住民が地道な話し合いで地域の問題を考え対応を決めてゆく仕組みである。宮本常一の『忘れられた日本人』で、対馬の村の寄り合いの話が挙げられていた[iii]。そこでは村の人々が集まって、様々な話題に対して何日も時間をかけて話し合う。このような対話の営みから、その地域に住む一人一人の状況に即した、土地に根ざした知恵が出てくる。
その際は、何かを変える、変えないというよりも、今あるもの、過去あったものの中で残すべきものと残すべきでないものを峻別していく視点が求められる。社会を変える、日本を変えるなどとはおこがましく簡単には言えない。それよりも、次の世代に何を残していきたいのか、自分達の世代で終わらせるべきものは何か、そうした態度で話し合いに臨んでゆく。一人一人が、共同体を受け継ぐ者として、公共性を持って次代へ繋いでいく意識をもって行動するのだ。

 近代と共生の作法による倫理と規範の創造
 こうした新しい時代を生きるために、今後一人一人が2つの作法を身につける必要がある。一つは、近代の作法である。ここには様々なものが含まれるため、ここでは網羅的に述べることはできない。一例を挙げるなら、意思決定の際の合理的思考能力である。例えば原発についてでも、単純に感情に流されて反対とするのは良くない。現代社会を維持するには現時点では必要という事実は見つめなければならない。一方で、今回の事故で分かったようにコントロールできなくなった時の危険性も認識し、それによって現在苦痛を味わっている方々がいることも受け止める。そうした現状を踏まえた上で、いくつかの選択しうる戦略オプションを考案する。それぞれに想定されるリスクも認識した上で、判断するのだ。そうした知的な作法、近代の思考のディシプリンを訓練して身に付けていかなければならない。そうした近代の作法が、今後の日本の地域経営や共生社会の構築には必要となる。
 二つ目が、共生の作法である。これは、異なる他者が共存する空間で、どのように関係性を結んでいくかという作法である。今回の復興支援で、住民の方々と協働する経験を通して学んだことから、それを考察してみる。
その共生の作法には、主に3つの関わり方があると総括できる。まずは、自分が関わる一人一人の声を聴き、具体的な必要に応えていくことである。社会を俯瞰する見方が「鳥の目」だとすれば、「虫の目」で地域を見守り、目の前の相手に接していくことである。重要なのは、一人一人とどこまで真摯に向きあえるかである。一人一人の漏らす声を聴きとり、拾い上げることであり、そこにしか答えはない。その目線から離れたら何をしても空回りしてしまう。仮に、鳥の目で見た景色と虫の目で見た様子が異なった場合は、虫の目を信じ、鳥の目を疑うべきだ。一人一人の具体的な声から、地域や社会を問い直すことが震災後ますます重要になっている。
 つぎに、目の前の相手にどこまでも寄り添うことである。今回の震災後、多くの義援金が集まり、全国からボランティアが被災地に入った。個人や団体、企業で様々な支援が寄せられた。そうした自己犠牲精神は素晴らしい。しかし、被災者側に立って見た時、そうした支援が必ずしも良い結果のみをもたらさない場合もあった。つまり善意の押し付けになり、相手を見ていない支援である。自分の自己犠牲的行為が正しいと思い込んでいる人は、それがもたらす様々な波及的効果に思いを寄せない。ウェーバーが言う「心情倫理」と「責任倫理」の問題である[iv]。ある意味で、疑いの無い善意が一番危険だ。そもそも、絶対的な善などこの世界に存在しないのだから。では、どのような作法で相手と接すれば良いのか。まず、自分の不完全性を自覚し、誤りをおかしうることを認識する。ミルが言う、「我々は誤りを犯し得る存在である[v]」という自覚である。そして相手に寄り添う姿勢を取る。支援で言えば、支援してあげるのではなく、させて頂くということだ。それは、相手への尊敬の念を持つということである。あくまで相手が主役であり、自分達は従の存在である。そして対面で向きあうよりも、横に座って同じ視点で見ることを心がける。自分が話すよりも、相手の話したいことを聴くことに時間をかける。そして何を求めているのかを察し、どうすれば良いかを一緖に考える。そうした姿勢が、相手の自立へと繋がる。
 そして最後に、一人一人が寛容さを持つことである。なぜか。ここまで述べたように、なるほど確かに一人一人の声を聴き、寄り添うことは大事だろう。だが、その声は常に複数性を孕む。つまり、異なる一人一人が発する以上、その声は異なるものにならざるをえない。いずれの声も真であり、同時に互いに矛盾する状況が起こりうる。そのような事態に際し、どのように対処すれば良いのだろうか。言い換えれば、「即ち、単一の合理的な善についての公共の合意が成立し得ず、対立し通約不可能でもある諸構想の多元性が所与として認められざるを得ないとするならば、社会的統一はいかにして理解され得るのか。さらに、社会的統一がある一定の仕方で理解され得るとするならば、いかなる条件の下でそれは実際に可能なのか[vi]」という問いが提出される。最初に述べるべきは、それをたちまち可能にする魔法の呪文は無いということだ。その矛盾を打開する特効薬もない。採りうるべき処方箋としては、愚直な対話の営みを続けることしかない。つまり我々が持つべきは、「何が正義かについて超越者が知っている正解…(中略)…を手に入れたつもりになって、それをこの世に性急に実現しようとする哲学者王の野心ではなく、この問いを問い続け、解答を異にしながらも同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意[vii]」である。そして、その対話の営みによって構築される社会とは、「人々が解答を共有することに寄ってではなく、問いを共有することによって結合する社会であり、終わることのない自由な対話を通じて、動的な連帯が維持されるような社会[viii]」である。だがその対話は、決して生やさしいものではない。その対話に基づく社会を実現するためには、一人一人が、「寛容さ」という心的態度を持たなくてはならない。つまり「異質な価値観を抱く他者との間で、相互理解の困難さ故に緊張を孕んだ対話を粘り強く営むことを通じて、自己の思想の地平を絶えず拡げてゆこうと努める人々の、永続的な探求の情熱から生まれる自己批判的な謙抑としての寛容[ix]」である。
村上春樹は、震災後の69日のカタルーニャ国際賞のスピーチで、「失われた倫理や規範[x]」を再生しなければならないと述べた。村上が述べるように、それは「我々全員の仕事」であり、「一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして」その作業に取りかからなければならない。合理的思考力を磨き、一人一人に真摯に寄り添い、寛容さを持って対話の営みを続ける。そうした近代と共生の作法を一人一人が使いこなして新しい倫理と規範を創造し、震災後の時代を生き抜く覚悟こそが今求められている。








[i]  寺田寅彦.“日本人の自然観”.『寺田寅彦全集 第六巻』.岩波書店,(1997), 294 p.
[ii]  岡本全勝.『新地方自治入門 行政の現在と未来』.時事通信社,(2003),202p.
[iii]  宮本常一.『忘れられた日本人』.岩波書店,(1984), 15 p.
[iv]  マックス・ウェーバー.『職業としての政治』.岩波書店,(1980), 89 p.
[v]  ジョン・スチュアート・ミル.『自由論』.岩波書店,(1971),107p.
[vi]  ジョン・ロールズ.『公正としての正義 再説』.岩波書店,(2004),333p.
[vii]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986), 24 p.
[viii]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986) ,24 p.
[ix]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986), 202 p.
[x]  村上春樹.“非現実的な夢想家として”.(カタルーニャ国際賞受賞スピーチ).47NEWS. 2011-6-9.

2012年2月11日土曜日

日本の地域  二 希望

二 希望
だが、震災後の現象のいくつかには希望も垣間見られた。それは、先だっての現状の見立てにかすかな光明をもたらすものであった。

失われた文明
 成長から取り残された地方の縮図とも言える大島は、災害に対しては賢明な知恵を持っていた。地震の直後、連絡船ひまわりの船長は一人沖に乗り出し津波に向かっていった。津波の時は船を沖に出せという昔の漁師の言い伝えに従ったからだ。その結果津波をくぐり抜けて無事生還し、その後は本土との物資運搬に尽力した。
また大島の高台にはみちびき地蔵という地蔵菩薩像があり、津波の時はその丘まで逃げろという言い伝えもあった。三陸沿岸地域は度々津波に襲われるため、今でもこのような一種の民俗知、自然知が残っており、それが人々の命を救った。
 また大島では地元の住民による自発的な活動も見られた。島の漁師を中心としたおばか隊は、自分の家が流されているにもかかわらず、島民のために救援物資運搬や瓦礫撤去に奔走した。隊員は一時期60人超にも達し、これは若い世代が少ない島の中では相当高い参加率である。地元住民による自発的かつ継続的な自助組織は、被災地全体でも稀である。互いが顔見知りだからこそ湧き上がる、人情による紐帯が残っていたのだ。
 今、ひまわり船やみちびき地蔵のような民俗知、自然知の価値を見直す時が来ている。2011年度の小学校教科書に再録された『稲むらの火』は、稲束に火をつけて村民たちを高台に誘導し津波から救った男の話である。これは1854年の安政南海地震の史実を元にしている。自然の脅威をかわす知恵を昔の人々は継承していたのだ。それは、現代の我々が忘れてしまったものである。
物理学者の寺田寅彦は、日本人の自然観について次のように述べている。すなわち日本の自然は慈母の慈と厳父の厳とを併せ持つとし、「すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た[i]」と述べた。今回の震災を語る時、被災者は「生かされている」という言葉を度々使っていた。それはこの「慈母の慈と厳父の厳」を肌身で感じているのでその言葉が選ばれるのだ。
 また、震災後日本の持つ「無常観」に多くの人が言及していた。宗教学者の山折哲雄は、法華経の「三車火宅」の譬え話を引いている[ii]。この話の筋は次の通りだ。ある長者の大きな屋敷がある。これは世の中全体を象徴している。その屋敷の中で沢山の子供たちが無邪気に遊んでいる。実はその屋敷には火がついて燃え始めている。放っておけば全員が焼け死んでしまうかもしれない。その時、長者は屋敷の門のところに金銀財宝で飾り付けた三つの車を置いて、子供たちの気を引く。子供たちが外に出たところで、もう一つ大きな立派な車があり、それにみんなを乗せて救済する。これは、助かるときも、助からない時もみんな一緒という思想である。山折は、日本人が災害に際して忍耐強い対処をする背景には、この考え方があると指摘する。みんなが苦労しているから、自分も文句を言わずに我慢しようという心的態度である。確かに東北の、それも北の地域に住む人々ほどその意識は強く持っていた。震災から数ヶ月経ち、地元の求人が出てきても、気仙沼の人はなかなか再就職しようとしない。理由を聞くと、「周りの人も仕事がないのに、自分だけ働くことはできない」と答えた。
 ここまで述べた民俗知、自然知、そして宗教観は、近代以前の日本を根底の部分で支えていた。それは、歴史家渡辺京二の『逝きし世の面影』や、民俗学者宮本常一の『忘れられた日本人』に書き残された失われた文明の姿だ。ここで言う文明とは、「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体[iii]」のことである。日本全国を旅して庶民と会話をした宮本は、次の言葉を残している。「私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う[iv]。」
また、歴史家の網野善彦は、「“進歩”の名の下に切り捨てられてきたものに目を向けつつ、歴史を再構成することが、必須の課題になってきた[v]」と述べた。つまりこれまで我々が進歩の名の下に切り捨てられてきたものの中に、実は大切なものがあったのではないだろうか。近代の人間は、それ以前の文明が培っていた大事なことを忘れつつあるのではないか。すなわち、我々がもともと持っていた、人間と自然の在り方、人間と社会の在り方、人間の生き方である。そうした失われた文明の知恵をもう一度学ぶことが必要なのだ。そのためには、まず自分の周りのものから見直していくことができる。例えば食べるものを自分で庭やベランダで作ってみるのもよい。安くて便利な食器より、値がはっても長持ちする漆の食器を選ぶこともできる。失われた文明を蘇らせるには、我々の普段の生活の基盤となっている価値観を問い直すことから着手するのだ。

 地域住民、NPOによる相互自助の試み
 今回の震災では、地域レベルでの様々な取り組みが見られた。避難所から仮設住宅への移行に伴い、地元の方々とNPOが連携して入居者の支援事業を展開している。こうした草の根レベルでの支援は、石巻、気仙沼、大船渡等多数地域で進められている。
その一例として、大船渡での仮設住宅支援員配置支援プロジェクトでは、地元住民を支援員として雇用し事業展開している。支援員が仮設外からの行政、支援団体等からの支援内容をコーディネートし、住民自治を促進している。これは岩手県水上市の行政、NPO、企業が同じテーブルについて行なっている[vi]
そして、震災支援活動分野も仮設住宅の巡回訪問から医療介護福祉、教育支援、コミュニティ再生、産業復興、中間支援まで幅広く展開されている。こうした取り組みは、いずれNPOや地域によるセーフティーネットとなる。その先には我々が属する共同体の存続可能性が見えてくる。

個人の位置と役割
 震災後、短期での震災ボランティアや、休職や休学をして長期間携わる人々など多くの人が現地で活動した。復興支援として人材を現地に送り込む活動をしていた団体もあり、私はNPO法人ETIC.から派遣されていた。この枠組みを使って、大学生から休職してきた社会人まで数十名が三ヶ月以上の長期間活動していた。皆が、自分にも何か出来ないかという一心で日々活動していた。そうした人々の行動からは、自分達の未来を自分達でつくるという気概が感じられた。
 こうした人々は、震災がきっかけで突然目覚めたわけではない。もともと何か人のためになることがしたいという気持ちを漠然と持っており、震災でその具体的な位置と役割が見つかったのだ。そこには、近代に生きる人間としての主体性の兆しが現れていた。









[i] 寺田寅彦.“日本人の自然観”.『寺田寅彦全集 第六巻』.岩波書店,(1997), 278 p.
[ii]  山折哲雄,赤坂憲雄.『反欲望の時代へ 大震災の惨禍を越えて』.東海教育研究所,(2011),89p.
[iii]  渡辺京二.逝きし世の面影.葦書房,(1998),7p.
[iv]  宮本常一.『忘れられた日本人』.岩波書店,(1984), 333 p.
[v]  網野義彦.『「日本」とはなにか 日本の歴史<00>.講談社,(2000), 13p.
[vi]  RCF復興支援チーム.「行政・企業の役割と今後のNPOとの連携による被災地復興」.  RCF復興支援チーム.2011-12-23. http://rcf311.com/wp-content/uploads/2011/12/koshikai1213.pdf (参照2012-1-20

2012年2月10日金曜日

日本の地域  一 現状

昨年の宮城県気仙沼大島での自分の活動については、これまでも何度か書いている。今回は、その活動を通して見えた日本が直面している3つの問題、すなわち、日本社会における統治の在り方、人々の営みの存続性、我々の人間像について若干の考察を述べたい。

一 現状
 上記の3つの問題について、日本の体制と地方の高齢化の問題、震災と原発報道をめぐる人々の言動から考察していく。

中央集権統治体制の限界
3.11以後、宮城県気仙沼市大島の人々は、一人一人が自分なりに仕方で震災後の生活と向き合っていた。ある者はおばか隊として物資運搬や瓦礫撤去を行い、ある者は民宿を再開し、ある者は仙台や東京に出稼ぎに行き、ある者は勉学に励んだ。全ての人が、その時自分にできることをしていた。
 そうした現場の方々が奮闘している一方で、県や市の対応に歯がゆさを感じる時もあった。現場を一目見れば、今何が必要なのかは誰でもわかる。しかし行政組織は上からの指示が無ければ動けない。例えば、気仙沼の中心的産業であった漁業の復旧を早く進めて欲しいという声を多く聞いた。そのためには水質調査や港湾工事を行う必要がある。しかし数ヶ月が過ぎても現状は変わらない。なぜかと対策本部の人に聞くと、気仙沼市の方針が決まらないと漁港の復旧工事ができないという事情だった。そこでいつ頃方針が決まるのかを市役所に確認したところ、県漁協や政府の方針が決まらないと自分達も動けないと答えた。このように必要な指示が下されるのに時間がかかり、ようやく届いてもその指示が的外れであることや、状況が変わっていた場面も多々あった。これは、個々人の資質の問題というよりは、意思決定権者と現場の距離が離れすぎていることが問題なのだ。
 3.11が明らかにしたことは何か。それは、明治維新以来の「富国強兵」「中央集権」モデルの限界である。『坂の上の雲』で描かれた様に、日本は西洋列強に伍する国になるために、人や資金などの資源を東京に集中させ、一点突破を図った。その極点が日露戦争での勝利である。その後も太平洋戦争時に総力戦体制を構築し、戦後は安保条約の下で経済成長に邁進し、経済大国をつくり上げた。行政においても中央官庁が主導し、地方行政はその実行機能を担った。しかし、戦後日本社会が抱える問題は複雑化し、中央集権体制ではその状況の変化に対応できない。すなわち、日本社会は統治体制の危機が生じていたのである。

人々の営みの存続の危機
一方で、高度経済成長期には東北から若年層が移住ないしは出稼ぎとして都市に流入した。バブルを経て時期により変動はあったものの、今でも高校や大学を卒業した後は地元に残らず東京等に出て仕事を見つける人々が多い。その結果、東北の高齢化率は増加し、東北地方全体で25%強、沿岸部では35%を超える地域もある。そして震災によってさらに人口流出が加速した。
今回気仙沼市大島の世帯を全戸訪問したことで、高齢化、独居世帯の割合の高さを肌身で感じた。大島の高齢化率は38.5%であり、全国平均の22.7%(平成21年統計局)に対して1.7倍である。また独居世帯の割合は17.5%5世帯に1世帯近くが独居生活者である。それ以外にも老夫婦2人で暮らしている世帯も非常に多い。こうした世帯は震災前から日々の生活や病院通いに困難さを感じていた。それに対して福祉、介護サービスは不足気味であり、高齢化社会を支える仕組みづくりは遅れていた。
 地方で進行している事態として、限界集落という現象がある。小さな農村などで高齢化が進み、若い世代がほとんど流出してしまい、このままでは集落が無くなってしまう見込みにある地域だ。こうした地域では、人々の生活の営みが忘却されていく。都市化と少子高齢化が同時に進行したため、その流れは2倍速で進んでいった。すなわち、人々の営みの存続の危機である。

前近代的な日本人
 震災と原発をめぐる人々の言動は、日本人のメンタリティを浮き彫りにした。まず、原発事故をめぐる人々の対応の一部にも、疑問を感じた。度々見られた言論として、「政府や東電に騙されていた」と主張する人々がいる。しかし、騙されたと言えば、騙された人間の責任は無くなるのか。原発が悪いというならば、原発の建設が進められてきたのと同じ時代に生きていた以上、その是非を主体的に考える事なく、原発に暗黙の承認を与えていた同時代人の誰しもに一定の責任があるのではないか。ここで私は原発自体の是非を言っているのではない。福島や他の地方に原発設置を押し付けておいて、事故が起こった途端、「東電に騙されていた。私は反原発だった。」というという発言をして自らを省みない精神構造の問題を言っている。
なぜなら、日本にはつい何十年前に全国民が「政府、大本営、新聞に騙された」と騒いだ歴史があるからだ。映画監督の伊丹万作は、終戦後、戦争責任について次のように述べている。「つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた当然両方にあるものと考えるほかはないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである[i]」。
こうした人々の責任感の希薄さは、戦争中に最も災厄をもたらした。丸山眞男が「無責任の体系」と指摘した現象である。人々の主体性の欠如は戦争指導者にまで及んだ。丸山は三国同盟でイニシアティヴをとった駐独大使の大島浩の弁明を例にあげ、「ここで問題なのは、自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度自体なのである[ii]」と指摘した。また開戦時の外務大臣だった東郷茂徳は、三国同盟についての賛否を問われて、「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります。すなわち前に決まった政策が一旦既成事実になった以上は、これを変えることは甚だ簡単ではありません、云々[iii]」と東京裁判で述べている。これと同じ精神の構造を、未だ日本人は引きずっている。伊丹は「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。(中略)現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである[iv]」と述べた。
 前述した主体性の希薄さは、言論の合理性の欠如に帰結する。なぜなら、傍観者は実効性など念頭に置くこと無く感情論で語ることが許されるからである。「がんばろう日本」という、震災後メディアや企業により叫ばれていたスローガンがそれを表していた。確かに東北の人々が「がんばっぺ気仙沼」というのは主体性を感じられた。しかし「がんばろう日本」と言っているのは主に東京の人々で、東北の人たちは使っていなかった。その場所にいない人々が単なるかけ声として言うことは無意味である。
こうした精神論的スローガンには、なにか旧日本軍の「必勝の信念」に近い意識が感じられる。旧日本軍も、太平洋戦争における軍事戦略の不在を精神論で埋めようとした。また当然中止すべき作戦も、情に流されて意思決定が遅れた[v]。一兵卒として戦争に参加した司馬遼太郎は、軍部への疑問と怒りを感じていた。作家の辻井喬は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』には隠れたテーマとして昭和の軍部批判があるとし、司馬が軍事指導者の戦略戦術性の欠如や過度の精神主義を強く批判していると指摘する[vi]
日本は、真の意味での下からの革命を経験していない。よって、根底の意識は、未だ前近代的な人間像に留まっているのだ。










[i]  伊丹万作.『伊丹万作エッセイ集』.筑摩書房,(2010),97p.
[ii]  丸山眞男.『現代政治の思想と行動』.未來社,(2006),107p.
[iii]  丸山眞男.『現代政治の思想と行動』.未來社,(2006),108p.
[iv]  伊丹万作.『伊丹万作エッセイ集』.筑摩書房,(2010),98p.
[v]  野中郁次郎、他.『失敗の本質』.中央公論新社,(1991),268p.
[vi]  辻井喬.『司馬遼太郎覚書『坂の上の雲』のことなど』.かもがわ出版,(2011),69p.