2012年2月11日土曜日

日本の地域  二 希望

二 希望
だが、震災後の現象のいくつかには希望も垣間見られた。それは、先だっての現状の見立てにかすかな光明をもたらすものであった。

失われた文明
 成長から取り残された地方の縮図とも言える大島は、災害に対しては賢明な知恵を持っていた。地震の直後、連絡船ひまわりの船長は一人沖に乗り出し津波に向かっていった。津波の時は船を沖に出せという昔の漁師の言い伝えに従ったからだ。その結果津波をくぐり抜けて無事生還し、その後は本土との物資運搬に尽力した。
また大島の高台にはみちびき地蔵という地蔵菩薩像があり、津波の時はその丘まで逃げろという言い伝えもあった。三陸沿岸地域は度々津波に襲われるため、今でもこのような一種の民俗知、自然知が残っており、それが人々の命を救った。
 また大島では地元の住民による自発的な活動も見られた。島の漁師を中心としたおばか隊は、自分の家が流されているにもかかわらず、島民のために救援物資運搬や瓦礫撤去に奔走した。隊員は一時期60人超にも達し、これは若い世代が少ない島の中では相当高い参加率である。地元住民による自発的かつ継続的な自助組織は、被災地全体でも稀である。互いが顔見知りだからこそ湧き上がる、人情による紐帯が残っていたのだ。
 今、ひまわり船やみちびき地蔵のような民俗知、自然知の価値を見直す時が来ている。2011年度の小学校教科書に再録された『稲むらの火』は、稲束に火をつけて村民たちを高台に誘導し津波から救った男の話である。これは1854年の安政南海地震の史実を元にしている。自然の脅威をかわす知恵を昔の人々は継承していたのだ。それは、現代の我々が忘れてしまったものである。
物理学者の寺田寅彦は、日本人の自然観について次のように述べている。すなわち日本の自然は慈母の慈と厳父の厳とを併せ持つとし、「すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た[i]」と述べた。今回の震災を語る時、被災者は「生かされている」という言葉を度々使っていた。それはこの「慈母の慈と厳父の厳」を肌身で感じているのでその言葉が選ばれるのだ。
 また、震災後日本の持つ「無常観」に多くの人が言及していた。宗教学者の山折哲雄は、法華経の「三車火宅」の譬え話を引いている[ii]。この話の筋は次の通りだ。ある長者の大きな屋敷がある。これは世の中全体を象徴している。その屋敷の中で沢山の子供たちが無邪気に遊んでいる。実はその屋敷には火がついて燃え始めている。放っておけば全員が焼け死んでしまうかもしれない。その時、長者は屋敷の門のところに金銀財宝で飾り付けた三つの車を置いて、子供たちの気を引く。子供たちが外に出たところで、もう一つ大きな立派な車があり、それにみんなを乗せて救済する。これは、助かるときも、助からない時もみんな一緒という思想である。山折は、日本人が災害に際して忍耐強い対処をする背景には、この考え方があると指摘する。みんなが苦労しているから、自分も文句を言わずに我慢しようという心的態度である。確かに東北の、それも北の地域に住む人々ほどその意識は強く持っていた。震災から数ヶ月経ち、地元の求人が出てきても、気仙沼の人はなかなか再就職しようとしない。理由を聞くと、「周りの人も仕事がないのに、自分だけ働くことはできない」と答えた。
 ここまで述べた民俗知、自然知、そして宗教観は、近代以前の日本を根底の部分で支えていた。それは、歴史家渡辺京二の『逝きし世の面影』や、民俗学者宮本常一の『忘れられた日本人』に書き残された失われた文明の姿だ。ここで言う文明とは、「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体[iii]」のことである。日本全国を旅して庶民と会話をした宮本は、次の言葉を残している。「私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う[iv]。」
また、歴史家の網野善彦は、「“進歩”の名の下に切り捨てられてきたものに目を向けつつ、歴史を再構成することが、必須の課題になってきた[v]」と述べた。つまりこれまで我々が進歩の名の下に切り捨てられてきたものの中に、実は大切なものがあったのではないだろうか。近代の人間は、それ以前の文明が培っていた大事なことを忘れつつあるのではないか。すなわち、我々がもともと持っていた、人間と自然の在り方、人間と社会の在り方、人間の生き方である。そうした失われた文明の知恵をもう一度学ぶことが必要なのだ。そのためには、まず自分の周りのものから見直していくことができる。例えば食べるものを自分で庭やベランダで作ってみるのもよい。安くて便利な食器より、値がはっても長持ちする漆の食器を選ぶこともできる。失われた文明を蘇らせるには、我々の普段の生活の基盤となっている価値観を問い直すことから着手するのだ。

 地域住民、NPOによる相互自助の試み
 今回の震災では、地域レベルでの様々な取り組みが見られた。避難所から仮設住宅への移行に伴い、地元の方々とNPOが連携して入居者の支援事業を展開している。こうした草の根レベルでの支援は、石巻、気仙沼、大船渡等多数地域で進められている。
その一例として、大船渡での仮設住宅支援員配置支援プロジェクトでは、地元住民を支援員として雇用し事業展開している。支援員が仮設外からの行政、支援団体等からの支援内容をコーディネートし、住民自治を促進している。これは岩手県水上市の行政、NPO、企業が同じテーブルについて行なっている[vi]
そして、震災支援活動分野も仮設住宅の巡回訪問から医療介護福祉、教育支援、コミュニティ再生、産業復興、中間支援まで幅広く展開されている。こうした取り組みは、いずれNPOや地域によるセーフティーネットとなる。その先には我々が属する共同体の存続可能性が見えてくる。

個人の位置と役割
 震災後、短期での震災ボランティアや、休職や休学をして長期間携わる人々など多くの人が現地で活動した。復興支援として人材を現地に送り込む活動をしていた団体もあり、私はNPO法人ETIC.から派遣されていた。この枠組みを使って、大学生から休職してきた社会人まで数十名が三ヶ月以上の長期間活動していた。皆が、自分にも何か出来ないかという一心で日々活動していた。そうした人々の行動からは、自分達の未来を自分達でつくるという気概が感じられた。
 こうした人々は、震災がきっかけで突然目覚めたわけではない。もともと何か人のためになることがしたいという気持ちを漠然と持っており、震災でその具体的な位置と役割が見つかったのだ。そこには、近代に生きる人間としての主体性の兆しが現れていた。









[i] 寺田寅彦.“日本人の自然観”.『寺田寅彦全集 第六巻』.岩波書店,(1997), 278 p.
[ii]  山折哲雄,赤坂憲雄.『反欲望の時代へ 大震災の惨禍を越えて』.東海教育研究所,(2011),89p.
[iii]  渡辺京二.逝きし世の面影.葦書房,(1998),7p.
[iv]  宮本常一.『忘れられた日本人』.岩波書店,(1984), 333 p.
[v]  網野義彦.『「日本」とはなにか 日本の歴史<00>.講談社,(2000), 13p.
[vi]  RCF復興支援チーム.「行政・企業の役割と今後のNPOとの連携による被災地復興」.  RCF復興支援チーム.2011-12-23. http://rcf311.com/wp-content/uploads/2011/12/koshikai1213.pdf (参照2012-1-20

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