2012年2月18日土曜日

日本の地域  四 方策

次に、前述した地域経営による多様性に富んだ日本と、対話の営みによる持続可能な地域を実現し、倫理と規範を創造するための方策を考えていきたい。

 文化的多様性に富んだ地域経営
 地域経営による多様性に富んだ日本を達成するためには、文化的資産の産業化を一層進めていく。その地域が持つ文化的遺産を見直し、それを生かす地域経営を行うことが今後の地域のあり方だ。マキアヴェッリは、「国家を長期間にわたり維持していくには、しばしば本来の姿に回帰することが必要である」と説いている[i]。日本にしか無い価値、技術を、独自の付加価値として海外にも提供していくのである。その場合、ただ日本の文化を海外に売り込めば良いということではない。むしろ日本の文化に依って世界の文化発展に貢献する心意気で発信していく。一例として、国際政治学者の白石隆が編集長を務めるnippon.comという多言語発信オピニオンサイトがある。これは、「日本文化に内在する普遍性を通じて世界のために貢献できるようにしていくこと[ii]」を目指している。そして日本語、英語、中国語、フランス語、スペイン語の5カ国で発信しており、近い将来ロシアとアラビア語も加える予定である。日本が世界の知的発展のために成すべきことは多くあるのだ。
しかし現状の課題として、数多くの伝統文化は後継者不足と、事業としての採算性の厳しさに直面している。そのための施策として、以下の3つが挙げられる。1つは、他分野で経験を積んだ人を積極的にそうした事業に送り込むことだ。東北支援では、被災地支援グッツも作製されているが、現状では被災地支援の文脈で購入して頂いている面が否めない。そうではなく、本当に良い物だから買うという流れをつくる。そのためには、製品の品質向上はもとより、マーケティング戦略や財務的観点を踏まえた経営戦略を担える人間が必要となる。
2つめの施策として、個々の取り組み事例から得られた経験知を集積する機関を設ける。品質を向上させるには、現代の技術と掛け合わせて新しいものを生み出すことや、他地域の文化から学んで取り入れることも必要となる。そうしたノウハウを収集し編集する場をつくり、そこに集まる経験やナレッジを広く共有していく。
3つ目の施策として、こうした地域での取り組みを発展させるための大企業、省庁の後押しを進める。こうした組織が持つ人材、知識、情報のリソースは非常に魅力的であり、事業を拡張していく際には重要な起爆剤となる。
では、東北の将来像としていかなる姿が考えられるだろうか。私が3ヶ月気仙沼で過ごした後東京に戻ってきた時、東京の生活に強い違和感を覚えた。皆せっかちで、様々な欲に支配されているように感じた。それは東北の生活が自然に囲まれ、みんなで一緖に歩いていこうという風土だったからだろう。
そもそも東北は、日本ではなかった。9世紀初頭に坂上田村麻呂が朝廷に命じられて蝦夷討伐を行い、奥六郡にいた蝦夷は朝廷への服従を誓った。しかし、多賀城に拠点は置き朝廷が陸奥守を任じるものの、その後も実質的には陸奥の人々が安倍氏や清原氏などの領主の下でまとまっていた。中世初期は奥州藤原氏が平泉を拠点に栄えた。源頼朝に滅ぼされて以降、豪族や藩主が現れて勢力を築き、徐々に中央との交流が増えていく。江戸時代を経て戊辰戦争に奥羽越列藩同盟が敗れ、明治政府によって社会秩序に組み込まれる。つまり、東北が明確に日本の一部になったのはそう遠い昔のことではない。東北の人々は蝦夷の時代から独立心が強い。そうした歴史と風土が井上ひさしの『吉里吉里人』を生み出したのだ。
 この蝦夷の物語としては、岩手出身の作家高橋克彦の『火炎』『炎立つ』『天を衝く』という蝦夷3部作がある。かつて、朝廷や都の人々は陸奥に住む蝦夷を人でないといって蔑んだ時代があった。会ったこともないのに、親から子へそう言い伝えた差別の歴史があった。これはそうした偏見に屈せず、蝦夷の誇りを持って戦った熱い男達の物語だ。あの時代から1000年余が経ち、今を生きる世代にはそうした思い込みは無い。馬で何十日もかかって都から移動していた距離も、今は新幹線に乗れば半日で着く。今年は平泉が世界遺産にもなった。平泉の達谷窟は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行った際に建てられたと言い伝えられている。阿弖流為から始まり、安倍貞任や藤原経清、清衡などの奥州藤原氏の願いが現代に息づいているのだ。
また私事であるが、2009年から稽古を続けている北辰一刀流剣術は、陸前高田出身の千葉周作が開祖である。江戸で開いた玄武館は江戸の三大道場の一つとされた。最近では大河ドラマの『龍馬伝』や映画『るろうに剣心』の武術所作指導もしている。また震災前までは、少年剣道大会を陸前高田で開催していた。こうした東北に残る多様な文化は、日本のかつてあった文明の姿を留めている。
こうした東北の文化を継承する取り組みの一案として、東北でのオーラルヒストリー事業を実現させたい。前述した様に東北地方は高齢化が進み、今後2030年でそこに住む人口も大きく減少してしまう。その前に、どこにもいるその地区の長老達や語り部の昔話を聞いて回る。そこには生活の知恵、仕事の工夫、人との関係づくり、伝統行事などの様々な無形資産がある。例えば大島では漁業技術発達に多大な貢献をして県から表彰された方や、生涯で赤子を1300人取り上げた助産婦がいたと伺った。それらの昔の人の知恵に現代的な解釈を加え、知的財産として共有するのだ。私がつなプロで行なっていた聴き取り訪問の発展型でもある。この事業を通して、昭和を生きていた世代からのバトンを受け取り、平成を生きる世代へ繋いでいきたい。
また、より大規模な産業の話で言えば、復興の中で今注目されている動きに野菜工場がある。東北の農業再生への解決策として、自治体と大手メーカーが進めている。背景としては、津波で受けた田畑の塩害や、放射能物質による土壌汚染である。食の安全に気をつける消費者と、安心して農業を続けられる仕組みを切望する生産者のニーズにも合っている。これらの野菜工場には二種類あり、部分的に太陽光を利用する太陽光併用型と、全ての光をLEDなどの人工的な光源でまかなう完全人工型である。この野菜工場の運営に、地元で農地の被害を受けた農家が雇用されている。言うなればこうした近代技術と、東北の農民の知恵が結びつくことで、地域独自の発展をはかることができる。つまり工場付属の研究機関として、後継者不在のため廃れそうになっていた東北の農法が集積される場所をつくることがその一手となりうる。それにより伝統的な農法が保存されることは知的財産ともなる。同時にその農民の知恵を工場運営に生かすことで技術向上にも繋がるのだ。
東北は日本の、特に東京に対するアンチテーゼを提出する可能性を持っている。今復興の途上であるが、仙台が東京の様な大都市になれば良いということではない。むしろ東北に来た人々が、普段の自分の生き方を省みる場所になれば良い。東北の歴史と文化に学びながら、東北の風土を生かし、独自の在り方を模索していく。

2 自立と共生による対話の営み
対話の営みによる持続可能な地域をつくるためには、家族、縁者、地域、NPO、政府という5重のネットを構築する。現状において政府の社会保障制度に全幅の信頼が置けない以上、できるだけ政府に頼らない仕組みをつくっていくことが喫緊の課題である。何かあった時、また「国にだまされた」と嘆き途方にくれることのないように、地域単位でのソーシャルマイノリティのケアを地道に進めていく。そもそも社会保障という形で政府からお金を貰ってしまうと、一人一人の自立心が弱くなる。まずは国に頼らずとも自分の生活を維持していく手立てを追求していくべきだ。コミュニティで支えていく仕組みを徐々に強くしていき、将来的には政府の保障の割合を減らしていくことを目指す。
東北においては、復興のプロセスを住民主導で進めていくことがそのための起点となる。地区単位、地域単位での住民会議の場を活用し、地域全体で支える取り組みを考案していく。その動きをNPO、企業、行政が手助けしていく。例えば気仙沼大島でなら、それは通院のための病院搬送ボランティアや、介護を必要とする方のための訪問介護ステーション、大島の誇りを子供に伝える地元教育、地域に関する情報を伝える地域コミュニティ誌かもしれない。そうして生まれてきた構想を、近代精神を生かしつつ成し遂げることが重要となる。
こうした動きを理念として表すなら、それは「自立」と「共生」だ。自立とは、自分の問題を自分で決めて解決していくことである。また共生とは、異なる価値観を持つ他者の存在を認めることである。その根底には、自己への誇りと、他者への尊厳を持たねばならない。地域の問題は自分達の問題であると主体性を持って臨む。そして話し合いの中では意見が異なる相手であってもじっくり話を聴く。そうした対話の場を小さな単位でつくり、少しずつ拡げていくのである。

公的なもののための近代と共生の作法
倫理と規範を創造するために何にもまして欠かせないのは、公的な問題に自らを投じる意志である。確かに、自分の小さな私的な世界で充足していれば、敢えてその圏外に現れ出る必要はない。しかし公的領域こそは、「人々が、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所[iii]」なのだ。そして公的な問題に取り組む機会は、政治家や官僚のみに与えられているのではない。その意志を持った者には、各人に与えられた場所で「日々の要求[iv]」に従うことで、公的領域の秩序形成に貢献することができる。
具体的には、各人が出来る範囲で、自分の地域やNPOの活動に参加することである。平日は本業に打ち込み、夜や休日のみ活動することも可能だ。本業で得た知見を活動に活かすことで、少ない時間でも大きな効果をもたらすことができる。こうした職業上の知識や経験を生かして社会貢献する活動をプロボノという。プロボノとは、ラテン語で「公共善のために」を意味するpro bono publicoの略である。ローマ人は、誰であれ意志と能力がある者はres publica(公的なもの)のために自らの生涯を捧げていた。現代でローマ人のように生きることは難しいが、日常のほんの一部でも自分にできることで公共のために奉仕することはできる。
また、地方で自分の生活圏を築く生き方もある。場所は東北でも、四国や九州でも良い。文化の継承や地域社会の構築に携わりながら、自分が生きるために必要不可欠な衣食住と人間関係をつくっていく。その制限の中で、よりよい生活を営むために努力をしていく。今の20代には、そうした生活スタイルを選択する人々が増えている。ある意味で疎開に似ているが、都市で何か起こった場合でも生活だけはなんとかなる拠点を持つことの重要性は高まっている。そうした人々が文化的発展に貢献し、コミュニティの力を強靭にすることに貢献する。 









[i]  ニッコロ・マキアヴェッリ.『ディスコルシ 「ローマ史」論』.筑摩書房,(2011),457p.
[ii]  原田城治.「多言語発信サイトnippon.com開設にあたって」.nippon.com. 2011-10. http://nippon.com/ja/from-the-publisher/ (参照2012-1-22)
[iii]  ハンナ・アレント.『人間の条件』.筑摩書房,(1994),65p.
[iv]  マックス・ウェーバー.『職業としての学問』.岩波書店,(1936),74p.

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