2012年2月17日金曜日

日本の地域  三 未来

 では、我々はこれからどこへゆけばよいのか。次に示す絵が、前方の景色の一片でも捉えていることを望む。

 地域経営による多様性に富んだ日本
それは、諸地域の特殊性に着目した文化的発展を、それぞれの地域が独自に推進することだ。皆が単一の成功モデルを追う時代は終わった。これからは、それぞれの土地や風土に根ざした生活の豊かさを求める。まず地域が自立して社会を構成できるようにする。ここでは地域経営と言う概念が鍵となる。そして独立した地域の集合体として、多様性に富んだ日本を目指す。地域活性化や地域経営という言葉を使うと、経済的な発展のみが視野にあるように聞こえるかもしれない。そうではなく、民俗知、自然知、宗教観、さらには歴史や芸術までを射程に入れた文化的な発展を見据えるのだ。寺田の言葉を借りると、「私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである[i]」ということだ。
都道府県ごと、あるいは市区町村ごとに自治体は総合計画を策定している。戦後は教育、衛生、清掃、治安などの社会資本整備を重点に起き、地方公共団体はサービスを提供してきた。現在はそれらが欧米諸国と比較しても高い水準で達成され、次の目標を模索している段階である。今後は、地域に根付く助けあいの気風などの文化資本や、人間関係などの関係資本を含めた豊かさを目指していくことが望ましい[ii]

  2  対話の営みによる持続可能な地域
  また、地域の在り方で見れば、地域単位での共生の仕組みを作っていくことだ。今ある共同体を継続させる仕組みをつくっていく。そのためには、政府による社会保障制度がいつ破綻するか分からない状況で政府に全面的に頼るわけにはいかない。その前に、自発的な取り組みを進めていく必要がある。これまでは支援が必要な人は政府が支えるという発想だった。今後は、家族、縁者、地域、NPO、政府が5重のネットで支えていく形をつくっていく。特に地域、NPOの部分では、今震災復興という文脈で進められている事業を、より一般化して他地域にも展開していくことが効果的だ。
地域単位で発展する日本を実現するには、どのような仕組みが必要だろうか。それは、住民が地道な話し合いで地域の問題を考え対応を決めてゆく仕組みである。宮本常一の『忘れられた日本人』で、対馬の村の寄り合いの話が挙げられていた[iii]。そこでは村の人々が集まって、様々な話題に対して何日も時間をかけて話し合う。このような対話の営みから、その地域に住む一人一人の状況に即した、土地に根ざした知恵が出てくる。
その際は、何かを変える、変えないというよりも、今あるもの、過去あったものの中で残すべきものと残すべきでないものを峻別していく視点が求められる。社会を変える、日本を変えるなどとはおこがましく簡単には言えない。それよりも、次の世代に何を残していきたいのか、自分達の世代で終わらせるべきものは何か、そうした態度で話し合いに臨んでゆく。一人一人が、共同体を受け継ぐ者として、公共性を持って次代へ繋いでいく意識をもって行動するのだ。

 近代と共生の作法による倫理と規範の創造
 こうした新しい時代を生きるために、今後一人一人が2つの作法を身につける必要がある。一つは、近代の作法である。ここには様々なものが含まれるため、ここでは網羅的に述べることはできない。一例を挙げるなら、意思決定の際の合理的思考能力である。例えば原発についてでも、単純に感情に流されて反対とするのは良くない。現代社会を維持するには現時点では必要という事実は見つめなければならない。一方で、今回の事故で分かったようにコントロールできなくなった時の危険性も認識し、それによって現在苦痛を味わっている方々がいることも受け止める。そうした現状を踏まえた上で、いくつかの選択しうる戦略オプションを考案する。それぞれに想定されるリスクも認識した上で、判断するのだ。そうした知的な作法、近代の思考のディシプリンを訓練して身に付けていかなければならない。そうした近代の作法が、今後の日本の地域経営や共生社会の構築には必要となる。
 二つ目が、共生の作法である。これは、異なる他者が共存する空間で、どのように関係性を結んでいくかという作法である。今回の復興支援で、住民の方々と協働する経験を通して学んだことから、それを考察してみる。
その共生の作法には、主に3つの関わり方があると総括できる。まずは、自分が関わる一人一人の声を聴き、具体的な必要に応えていくことである。社会を俯瞰する見方が「鳥の目」だとすれば、「虫の目」で地域を見守り、目の前の相手に接していくことである。重要なのは、一人一人とどこまで真摯に向きあえるかである。一人一人の漏らす声を聴きとり、拾い上げることであり、そこにしか答えはない。その目線から離れたら何をしても空回りしてしまう。仮に、鳥の目で見た景色と虫の目で見た様子が異なった場合は、虫の目を信じ、鳥の目を疑うべきだ。一人一人の具体的な声から、地域や社会を問い直すことが震災後ますます重要になっている。
 つぎに、目の前の相手にどこまでも寄り添うことである。今回の震災後、多くの義援金が集まり、全国からボランティアが被災地に入った。個人や団体、企業で様々な支援が寄せられた。そうした自己犠牲精神は素晴らしい。しかし、被災者側に立って見た時、そうした支援が必ずしも良い結果のみをもたらさない場合もあった。つまり善意の押し付けになり、相手を見ていない支援である。自分の自己犠牲的行為が正しいと思い込んでいる人は、それがもたらす様々な波及的効果に思いを寄せない。ウェーバーが言う「心情倫理」と「責任倫理」の問題である[iv]。ある意味で、疑いの無い善意が一番危険だ。そもそも、絶対的な善などこの世界に存在しないのだから。では、どのような作法で相手と接すれば良いのか。まず、自分の不完全性を自覚し、誤りをおかしうることを認識する。ミルが言う、「我々は誤りを犯し得る存在である[v]」という自覚である。そして相手に寄り添う姿勢を取る。支援で言えば、支援してあげるのではなく、させて頂くということだ。それは、相手への尊敬の念を持つということである。あくまで相手が主役であり、自分達は従の存在である。そして対面で向きあうよりも、横に座って同じ視点で見ることを心がける。自分が話すよりも、相手の話したいことを聴くことに時間をかける。そして何を求めているのかを察し、どうすれば良いかを一緖に考える。そうした姿勢が、相手の自立へと繋がる。
 そして最後に、一人一人が寛容さを持つことである。なぜか。ここまで述べたように、なるほど確かに一人一人の声を聴き、寄り添うことは大事だろう。だが、その声は常に複数性を孕む。つまり、異なる一人一人が発する以上、その声は異なるものにならざるをえない。いずれの声も真であり、同時に互いに矛盾する状況が起こりうる。そのような事態に際し、どのように対処すれば良いのだろうか。言い換えれば、「即ち、単一の合理的な善についての公共の合意が成立し得ず、対立し通約不可能でもある諸構想の多元性が所与として認められざるを得ないとするならば、社会的統一はいかにして理解され得るのか。さらに、社会的統一がある一定の仕方で理解され得るとするならば、いかなる条件の下でそれは実際に可能なのか[vi]」という問いが提出される。最初に述べるべきは、それをたちまち可能にする魔法の呪文は無いということだ。その矛盾を打開する特効薬もない。採りうるべき処方箋としては、愚直な対話の営みを続けることしかない。つまり我々が持つべきは、「何が正義かについて超越者が知っている正解…(中略)…を手に入れたつもりになって、それをこの世に性急に実現しようとする哲学者王の野心ではなく、この問いを問い続け、解答を異にしながらも同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意[vii]」である。そして、その対話の営みによって構築される社会とは、「人々が解答を共有することに寄ってではなく、問いを共有することによって結合する社会であり、終わることのない自由な対話を通じて、動的な連帯が維持されるような社会[viii]」である。だがその対話は、決して生やさしいものではない。その対話に基づく社会を実現するためには、一人一人が、「寛容さ」という心的態度を持たなくてはならない。つまり「異質な価値観を抱く他者との間で、相互理解の困難さ故に緊張を孕んだ対話を粘り強く営むことを通じて、自己の思想の地平を絶えず拡げてゆこうと努める人々の、永続的な探求の情熱から生まれる自己批判的な謙抑としての寛容[ix]」である。
村上春樹は、震災後の69日のカタルーニャ国際賞のスピーチで、「失われた倫理や規範[x]」を再生しなければならないと述べた。村上が述べるように、それは「我々全員の仕事」であり、「一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして」その作業に取りかからなければならない。合理的思考力を磨き、一人一人に真摯に寄り添い、寛容さを持って対話の営みを続ける。そうした近代と共生の作法を一人一人が使いこなして新しい倫理と規範を創造し、震災後の時代を生き抜く覚悟こそが今求められている。








[i]  寺田寅彦.“日本人の自然観”.『寺田寅彦全集 第六巻』.岩波書店,(1997), 294 p.
[ii]  岡本全勝.『新地方自治入門 行政の現在と未来』.時事通信社,(2003),202p.
[iii]  宮本常一.『忘れられた日本人』.岩波書店,(1984), 15 p.
[iv]  マックス・ウェーバー.『職業としての政治』.岩波書店,(1980), 89 p.
[v]  ジョン・スチュアート・ミル.『自由論』.岩波書店,(1971),107p.
[vi]  ジョン・ロールズ.『公正としての正義 再説』.岩波書店,(2004),333p.
[vii]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986), 24 p.
[viii]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986) ,24 p.
[ix]  井上達夫.『共生の作法』.創文社,(1986), 202 p.
[x]  村上春樹.“非現実的な夢想家として”.(カタルーニャ国際賞受賞スピーチ).47NEWS. 2011-6-9.

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