2013年4月20日土曜日

フーコーとパレーシア

 弁論術を駆使できることは必要である。しかし、真理を語るべき状況では、それを語らなければならない。

  「パレーシアがあるためには、真理を語る際に、相手に不愉快な思いをさせたり、相手をいらだたせたり、相手を怒らせたり、極端な暴力へと至ることもあるいくつかの行いを相手の側に引き起こしたりするリスクを開き、それを設定して、それに立ち向かうことが必要なのです。したがってそれは、暴力のリスクを冒す真理です。たとえばデモステネスは、『ピリッポス弾劾第一演説』のなかで、自分は率直に語ると言った後で、次のように付け加えます。すなわち、そのように率直に語る際、自分が口にしたことによって自分の身に何が怒るかわからないということが、私にはよくわかっている、と。」
 「すなわち、パレーシアはある種の形態の勇気を含意するということです」
 「つまり、真理を語ろうとするとき、話し相手との個人的な友好関係を危うくするだけでなく、自分自身の生命を危険に晒すことさえあるということです。」
 「パレーシアステースが万難に打ち勝って真理を語ることで自らの勇気を示すならば、そのパレーシアが差し向けられる者の方は、自分に対して真理が語られるのを受け入れられることによって自らの魂の高潔さを示さなければならないという協定、リスクを冒して真理を語る者とその真理を聞くことを受け入れる者とのあいだのこの種の協定が、パレーシア的ゲームと呼びうるようなものの核心にあるのです。
 したがって、ひと言で言うなら、パレーシアとは、語る者における真理の勇気、つまりすべてに逆らって自分の考える真理のすべてを語るというリスクを冒す者の勇気であると同時に、自分が耳にする不愉快な真理を真であるとして受け取る対話者の勇気でもあるということになります。
 ここから、パレーシアの実践が、弁論術の技法のようなものと完全に対立するということがおわかりいただけるでしょう。非常に図式的に言うなら、古代において定義され実践されていたようなものとしての弁論術は、確かに、語り方にかかわる一つの技術ですが、しかしそれは、語る者と彼が語る内容とのあいだの関係を全く定めることがありません。弁論術とは、それによって語り手が、自分が考えていることとはおそらく全く異なることを語りながらも、その結果として、相手にいくつかの核心を生じさせ、いくつかの行いをもたらし、いくつかの信念を打ち立てさせることになるような、技法、技術、手続きの総体のことです。別の言い方をするなら、弁論術は、語る者が自分の言表する内容を信じてそれに結びつけられることを全く必要としてはいません。よき弁論家、よき弁論術教師とは、自分が知っていたり信じていたり考えていたりするのとは全く別のことを語りながら、自分が語ったその内容、自分が信じてもいないし考えてもいないし知りもしないその内容を、自分が語りかける相手に考えさせたり信じさせたり知っていると信じさせたりすることのできる者のことです。弁論術において、語る者と彼が語る内容とのあいだの絆は断ち切られていますが、しかし弁論術は、語られたこと、それが差し向けられる相手とのあいだに、拘束力を持つ絆を打ち立てるのです。おわかりいただけるとおり、この観点からみて、弁論術はパレーシアの正反対です。パレーシアが含意するのは逆に、語る者と彼が語る内容との間の協力で明白な絆の設立です。というのも、語る者は自分の考えを表明しなければならないからであり、パレーシアにおいては自分が考えていることと別のことを語ることなど問題外であるからです。したがってパレーシアは、語る者と彼が語る内容とのあいだに強力で必然的で構成的な絆を打ち立てますが、しかし語る者と語りかけられる者との絆については、これをリスクのかたちで開きます。というのも、結局のところ、語りかけられる者は常に、語られる内容を受け取らないこともできるからです。彼は、それを不愉快に感じるかもしれないし、それを拒絶したり、しまいには自分に真理を語った者を処罰したり、その者に大して復讐したりするかもしれないということです。弁論術は、語る者と語られる内容とのあいだの絆を必要とせず、語られる内容とそれが差し向けられる者とのあいだの高速的な絆、権力の絆の設定を目指します。これに対し、パレーシアは逆に、語る者と彼が語る内容とのあいだの強力で構成的な絆を必要とし、語ると彼が語りかける相手とのあいだの絆が断ち切られる可能性を、真理の効果そのものによって、真理の不愉快さの効果によって開くのです。非常に図式的に次のように言うことにしましょう。弁論術教師は、他の人々を拘束する有能な嘘つきである、あるいは完全にそのようなものでありうる。これに対し、パレーシアステースは逆に、自分自身を危険に晒し、自分の他者との関係を危険に晒すような真理を、勇気をもって語る者であるだろう、と。」
  「すなわち、人々を統治することを可能にする合理的な言説と、強者の不正を非難する弱者の言説です。この組み合わせは非常に重要なものです。というのも、その組み合わせが政治的言説の母型を構成することになり、その過程でそうした組み合わせが再び見出されることになります。実は、ローマ帝政の時代、統治についての問題が提起された時、そしてそうした統治がひとりの君主の手に委ねられ、その人の賢明さが政治的行為における絶対的に根本的な要素ということになった時、その最高権力者である人は、ロゴス-つまり理性であり、合理的なことを語り、思考する仕方ですが-を用いることができなければならない、とされるようになります。しかし、その言説を支え、基礎づけるために、それを導き保証してくれる存在として、彼は他者の言説を必要とするのですが、その他者というのは必然的に最も弱い者、そうでなくとも彼よりも弱い者ということになり、また彼に立向かい、必要とあれば、彼がどんな不正を犯そうとしているかを言う危険を引き受ける者でなければならないのです。強者の不正について語る弱者の言説は、強者が人間理性にももとづいた言説によって人々を統治するための、必要不可欠な条件なのです。」
  「そして、その人間は、何をしなければならないのか。まさにその彼こそが、場合によってはたった一人で、誰の助けもなしに、理性の名において一人で語り、人々に率直に真実を語るのであり、その真実とは、人々を説得し、各人がしかるべく振る舞うように彼らを説得するような真実なのです。(中略)理想国家や、完璧な秩序や、可能な限りきちんと育てられた官吏たちや、まさしく適切に果たされているそれらの機能がいかに存在しようと、市民たちが国家の秩序内でふさわしく振る舞い、国家が存続するために必要な一貫した組織を彼らが構成するためには、その上の何かが必要なのです。誰かが市民たちに完全な率直さをもって語りかけ、理性と真実の言葉を持ち、それによって彼らを説得しなければならないのです。(中略)すなわちパレーシアとは、国家が統治されるために必要とされるものなのですが、また同時に、国家において、その市民たちがいかに良く統治されていようとも市民として正しくあるために、その魂に働きかけるべきものなのです。」

ミシェル・フーコー.『ミシェル・フーコー講義集成12 コレージュ・ド・フランス講義1982-1983年度 自己と他者の統治』.筑摩書房,(2010)
ミシェル・フーコー.『ミシェル・フーコー講義集成13 コレージュ・ド・フランス講義1983-1984年度 真理の勇気 自己と他者の統治.筑摩書房,(2012)




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