2011年2月17日木曜日

マキアヴェッリと彼が生きた時代

「優れた防衛は、確かな防衛は、永続的な防衛は、あなた自身の力に拠って支えられ、あなたの力量に依存したもの、それだけであるから」

「天国に行くのに最も有効な道は、地獄へ行く道を熟知することである」


フィレンツェがロレンツォ・イル・マニーフィコによって治められていた時代は平和だった。ルネサンスの空気に満ち、ダ・ヴィンチやミケランジェロによって芸術が栄えていた。フィレンツェは一都市国家として繁栄を誇っていた。

 だが、1494年、シャルル8世によって平和は砕かれた。小太りの醜い男が率いるフランス軍は、無人の野を行くが如くイタリアを縦断した。ローマ法王ですら、シャルルの要求をかわすのが精一杯であった。フィレンツェなどは、シャルルの御機嫌伺いをするしかなかった。彼らは異国の侵略に無抵抗だった。

 そこに彗星のように現れたのがチェーザレ・ボルジアである。法王の息子として生を受け、枢機卿の緋色の衣を脱ぎ捨て、剣を取り教皇軍司令官としてロマーニャ地方を次々と侵略した。ロマーニャに彼の王国を打ち立てるという彼の野望が実現するかのように見えたが、その瞬間運命の女神に見放された。

 この激動の時代、フィレンツェは無力だった。フランスやスペインの大国の利害に翻弄され、政治的中立を標榜しつつも実際は優柔不断だった。マキアヴェッリは、そのフィレンツェの外交官として生きていた。彼は常に、国家の統治とは何かを問い続けた。

彼は、君主は3つの要素が求められるとした。すなわち、ヴィルトウ(力量)フォルトゥナ(運命)ネチェシタ(時代性)である。人間の運命は流転するものであり、洪水の氾濫の様に予想しえないものではあるが、しかし平和な時に堤防を築くことができるように、人間の自由意思とヴィルトゥによって有る程度運命に影響を与えることは可能である。さらに言えば、時代の必要性と君主の振る舞いが適応しているか否かによっても、運命がもたらす結果は変化する。時代が慎重であることを求めるならば慎重に振る舞う者が目標を達成するし、時代が果敢であることを求めるならば果敢に振る舞う者が勝利をおさめるのだ。しかして彼の思想は、次の言葉に終着されている。「慎重であるよりは果敢である方がよい」。

フィレンツェが無力であったのは自前の軍隊を持っていなかったからだ。それゆえに自分で眼前の状況を決することができず、常にフランス王の顔色を伺っているしかなかった。その恥辱はマキアヴェッリの頭に深く刻みつけられ、「武力を持たない預言者は滅びる」、という言葉を後年残している。


マキアヴェッリはルネサンスの人文主義の空気の中で育った。ダンテやペトラルカを愛した。人文主義者としてのマキアヴェッリは、『マンドラーゴラ』や『フィレンツェ史』の中に現れている。
 
 大国の利害に翻弄され無力なフィレンツェのただ中におり、その経験から「力の政治」を学んだ。そしてチェーザレ・ボルジアとの邂逅は、後に『君主論』を生み出した。その「力の政治」と人文主義の素養が合わさって記述されたのが、古代ローマの共和制を賛美する『ディスコルシ』である。

また、彼の書簡からは、ひょうきん者の素顔が見える。政治、生活、賭けごと、恋愛、男色にと自由奔放に生きている。

だが彼は、政治の動乱により職をなくしても官職につく望みを捨てきれなかった。彼は最後まで、実践の人として生きることを欲していた。

 「ひたすらに祖国の存否を賭して事を決する場合、それが正当であろうと、道に外れていようと、思いやりにあふれていようと、冷酷無残であろうと、また称賛に値しようと、破廉恥なことであろうと、いっさいそんなことを考慮にいれる必要はない。そんなことよりも、あらゆる思惑を捨て去って、祖国の運命を救い、その自由を維持しうる手だてを徹底して追求しなければならない」(Niccolo Machiavelli, 『ディスコルシ マキアヴェッリ全集2, 筑摩書房, 1999


0 件のコメント:

コメントを投稿