2011年11月13日日曜日

『背教者ユリアヌス』(辻邦生)

 自分は師に恵まれている。高校から大学にかけて、何人もの人にご教授して頂いた。中でも、高校の世界史の先生は今でも年に数回はお会いさせて頂いている。早稲田の文学部を卒業して出版社に入り、そこで『忘れられた日本人』を書いた宮本常一先生から指導を受けられた方だ。最後の授業の時、普段は着ないスーツにネクタイを締めて教室に現れた。「歴史とは、暗闇の中で握りしめたライトだ。その光によって、我々人間は未来を照らすことができる」と述べられた。

 その先生が薦めていた本が辻邦生『背教者ユリアヌス』である。ずっと気になっていたのだが、ようやく読むことができた。上巻は主人公が幽閉されていたが、中巻の急展開を経て副帝となって望むガリア征伐戦と征服後の統治は哲人皇帝の面目躍如だ。だが、部下に推挙されて皇帝となったあとのユリアヌスは、キリスト教徒との闘いに苦悶し、最後の対ペルシャ戦のくだりは哀しさと虚しさに貫かれている。
戦地でもプラトンを手放さず、マルクス・アウレリウス帝を尊敬するユリアヌスは、統治者としては不運だったかもしれない。だが、人間としては愛すべき哲学者だった。
 本書は毎日芸術賞に輝いた文学作品である。友人ゾナスとのやり取りや、軽業師ディアとの身分違いの恋愛は人間としてのユリアヌスの魅力を伝えている。ペルシャ戦の陣中で演じた軽業の後ユリアヌスに声をかけられたディアは、これが最後になると悟り、楽屋に戻って慟哭する。その細い後姿が哀れでならない。キリスト教司教アプロンとギリシャの神々を崇拝するユリアヌスとの議論は、人間と神の関係をどう捉えるかという問題に鋭く迫っている。そして皇帝としてのユリアヌスの言葉は、政治とは何かについて一片の、だが確かな真理を述べている。

 「いや、一芸に秀でた者の間には身分の上下はないのだ。なぜなら私たちがともにローマ帝国のために生きているからだ。ローマの民のために心を砕いているからだ。ディア、君が軽業を私に捧げてくれるように、私は秩序と正義をこの帝国に捧げようとしているのだ。ローマは広大で、永遠な存在だ。しかしそのようなローマでさえ、いきなりローマ帝国があるのではない。そこにはガリアの民もおり、ダキアの民もおり、シリアの住民たちもいる。そしてそのガリア一つ、ダキア一つとってみても、また無数の人々がいるのだ。ディア、君は町から町へ興行してまわって、こういうことを肌で実感しているのではないかね。そうなのだ、ディア、ローマとは、どこか別にある大きな一つの顔ではなく、この無数の個個の人間のなかに現れてくる現実の姿にほかならない。私がローマ帝国に秩序を捧げようというとき、それは、こうした民の一人一人の生活に結びつくことを意味するのだ」
 「君が哲学を棄てないのもそのためなのだね」ゾナスは陽気な青い眼を輝かせてディアのそばなら口を挟んだ。「君は、哲学も政治も軍事も同じ精神の働きが別の形で表れたものだと書いていたね」
 「そうだ。私にとってはこのローマという動かしがたい存在が問題なのだ。哲学だって、自由勝手にどのようにでも考えられるというものじゃない。この動かしがたい存在の理法に沿って、真実の姿をはっきりとつかみだすこと-それが哲学だ。ローマの秩序はこの理法をこの世に実際に適応させたものにすぎない。ディア、君だって、高く投げあげたものが地上に落ちてくることを否認しはしないだろう。軽業とは、ものが落ちてくることのなかに住む仕事だと言っていい。油断すれば高い梯子のうえから身体が落ちてしまう。このことは動かしがたいことだ。それが軽業の理法だ。だが、こうした動かしがたい理法はすべてのなかに存在する。むろん戦いのなかにもある。行政のなかにもある。商売のなかにさえあるのだ。私たちが真の仕事と呼ぶものは、そうした理法のなかに入って、それに則って事を処理することなのだ。だから、この理法のなかで仕事をする人間こそ真に人間と呼ぶにふさわしい。そこでは身分の上下があろうはずはない。みな兄弟姉妹なのだ。」
 ユリアヌスはそう言ってから、ふと、自分が思わず興奮しているのに気づいて笑った。

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