2014年9月28日日曜日

「Infinity of flowers」-ショッピングとアート-

 新宿GUCCIで展示されていたチームラボの「Infinity of flowers」を見てきました。

 壁一面に花が現れて、手を触れるとその花の絵が手の動きに沿って変化するというCG動画です。自分が触れた花びらが散って無くなり、またそこに花が咲く流れは、あたかも四季の自然の営みの時間を倍速で見ている様でした。こうしたインタラクティブな観客参加型のアートは、自分もそのアート作り手の一人になったように感じました

 展示はGUCCIの3階で行われていました。お店にとっても普段訪れない人もこれを目当てに訪れるので、ビジネス上のメリットもあるのでしょう。


 ショッピングに文化やアートを取り入れることで普段と違う体験が出来るのは実利と感動を両立できる点で魅力的なアプローチでした。こうした取り組みが増えると良いと思いました。


2013年11月24日日曜日

オペラ、キュレーター、アートプロジェクト


■オペラ ヴェルディ『リゴレット』
 新国立劇場でヴェルディ『リゴレット』を観てきました。あらすじはこちら。
 新制作とのことで、演出も話の筋がわかりやすくなっていました。リゴレットのまな娘を想う気持ちや、ジルダの純粋さ、マントヴァ公爵の好色っぷりがうまく際立っていました。ジルダ役のエレナ・ゴルシュノヴァが演技歌唱力ともに素晴らしかったです。
 リゴレットもジルダも哀れですが、そもそもはリゴレットが、娘をたぶらかされたと怒るモンテローネ伯爵を笑い者にし、伯爵がリゴレットを呪ったところからこの物語は始まります。人にしたことは自分に返ってくるという教訓ともとれます。
 「すでにひどい目にあわされている上に、さらに苦杯をなめさせられたと思わせないように、不幸な目にあった人間を軽々しく取り扱わないことが肝要である。ひどい辱めを受けた人間は、どのような危険や格別の危害を被ることも覚悟の上で、復讐を果たさずにはおかないものだからである」ニッコロ・マキァヴェッリ,『ディスコルシ』, p.431.

■文化の力・東京会議2013

 もともとはクリエイティブ・エコノミーの話を期待して参加したのですが、岩井克人教授による「信任論」が興味深い話でした。簡潔に述べると、これまでの資本主義は対等な個人/法人による契約を基盤とした契約社会であった。しかしこれからは医者と患者のように対象に対しての知識レベルが異なることを前提とした信任社会となる。それは高度専門化社会に必然の出来事であり、そうした専門家には倫理性が求められる。この倫理性の回復こそが重要なテーマとなる、というお話でした。





■キュレーター長谷川京子
 会社の友人に薦められて東京都現代美術館チーフ・キュレーターの長谷川京子さんの「キュレーション 知と感性を揺さぶる力」「なぜから始める現代アート」を読みました。展覧会の開かれる国の文化芸術史を理解した上で適切なコンテクストで作品を解釈するキュレーターという仕事や、草間さん、マイケル・リン、バーニー等トップアーティストとの関わりの話が新鮮で面白かったです。



■全国アートNPOフォーラムとアサヒ・アート・フェスティバル
 
 全国のアートNPOによる活動を紹介しこれからのアートによる地域再生について議論する全国アートNPOフォーラムとアサヒ・アート・フェスティバルに参加しました。印象的だったのは、子供、障がいを持つ方や外国人など社会の周辺と見なされがちな人々を巻き込んでいく試み、震災以後食事や電気への関わり方を見直す取り組みや、廃墟や墓などの見過ごされてきた場所の価値を再発見する人々でした。

2013年10月14日月曜日

表現の糧学校-アートNPOリンク-


以前アートNPOリンク主催の表現の糧学校に参加しました。これはアートプロデュースに関わっている人を主な対象とし、現代社会においてアート/芸術にどのような「基本姿勢」で向き合うのかをテーマとした一連の講座です。キーワードとして「ジェンダー」「資本性」「公共性」があり、五野井准教授による「公共性」の講座からはアートの意義について新しい見方を得ました。

 五野井氏からは、「公共空間の中の芸術を分けるものは何か」という問題提起がなされ、その何かが不足しているアーティストとして蔡國強やChim Pomが挙げられ、他方心を揺さぶるアーティストにはBanksyなどが挙げられました。

 その何かとは、フーコーの述べたパレーシアです。
 パレーシアとは、
1. 「真理」を述べること
2. それに「危険」が伴うこと
3. 危険を顧みず真実を語る「勇気」
の3つの要素から成り立ちます。パレーシアについて詳しくはフーコーによる講義録のこちらをご覧ください。

 つまり、その芸術が自己顕示欲などの自己利益から始まっているればそれは私的な芸術にとどまります。しかし自分の身を危険にさらしてでも訴えたいことがあったならば、それはパレーシアを伴い公共芸術となりうるという見方です。

 さらにフーコーは、パレーシアの精神が市民社会の成立に必要不可欠だと述べています。つまり国家を合理的に運営するためのロゴスと、強者の不正を指摘する弱者の言説を可能にするパレーシアが秩序のために必要であるということです。ならば現代社会における芸術やアーティストの役割も、不愉快な真実を躊躇することなく語ることであり、それによって人間として正しくあるために訴えかけることなのでしょう。


Banksy, ヨルダン側西岸パレスチナの分離壁にて

2013年8月17日土曜日

文化政策/アートマネジメントブックガイド

  文化政策とアートマネジメントについて昨年末から関心があり勉強しています。備忘録として参考になった本のリストを書き留めました。

<概説書>
・根木昭.『文化政策学入門』.水曜社, (2010) 【4.0】
いくつかある概説書の中でも最近出版された良書です。日本政府、おもに文化庁を中心とした政策方針の変遷をたどっています。関連する法律も参考資料として記述されているので、政策の成り立ちから理解することができます。


・小林真里他.『アーツ・マネジメント概論 三訂版』.水曜社, (2009) 【4.0】
同じく水曜社から出ているアートマネジメント概論です。第二部の実践編では、ホールや図書館、地域文化資源の運営まで記述されています。

・小林進.『コミュニティ・アートマネジメント いかに地域文化を創造するか』.中央法規出版, (1998)  【3.8】
・後藤和子.『文化政策学』 【3.8】

<古典>
・ボウモル、ボウエン.『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』 【4.0】
どの分野にもそれを読まずして語れない古典がありますが、文化政策/経済学の分野においてはこの本になります。1960年代のアメリカにおける舞台芸術(バレエ、クラシック、演劇等)が経済的な問題を抱える構造を解き明かし、だからこそ公共の支援が必要となるという論を展開しています。


<アートとまちづくり>
・吉本光宏監修.『アート戦略都市 EU・日本のクリエイティブシティ』.鹿島出版会, (2006)  【4.0】
アートを用いて街を活性化させる、クリエイティブシティという概念の事例を紹介しています。“クリエイティブシティ実現のために重要なのが次の3点である。すなわち、都市の財産が最大限に活用されること、集積効果によって、強い発信力と集客力を生み出すこと、そして子供を巻き込んでいくことである。また、都市のビジョンを持った上で、地域活性化の手段の中でも、“なぜアートなのか”の問いに対して行政や企業、NPOを含む関係者が真摯に答えていくことが求められる。”

・織田直文.『文化政策と臨地まちづくり』.水曜社, (2009)  【4.0】
関西地域を中心とした事例も紹介されています。
・藤浩志、AAFネットワーク.『地域を変えるソフトパワー』.青幻舎, (2012)  【4.0】
シャッター街や離島のまちおこし、多様性を受け入れるまちづくり、人をつなぐしくみづくりをアートを媒介として行い、地域が持つソフトパワーを見つけだすという事例集です。

<アートと経営>
・山田真一.『アーツ・マーケティング入門』.水曜社, (2008)  【4.0】
文化ホールやオーケストラ、文化財団のマーケティング観点からの運営方法について述べています。ビジネスで日々学んでいる考え方を文化やアートの分野に応用する余地は大いにあるなと感じました。

・垣内恵美子.『チケットを売り切る劇場 兵庫県立芸術文化センターの軌跡』.水曜社, (2012)  【4.0】
ゼネラルマネージャーの話が勉強になります。

<芸術と公共哲学>
・宮本久雄・金泰昌編.『公共哲学15 文化と芸能から考える公共性』. 東京大学出版会, (2004) 【4.0】
公共性を「滅私奉公」ではなく、個が私を生かして公を開く「活私開公」という見方で捉えるという試みの下に開かれたシリーズの一作です。映画や演劇、文学における公共性とはなにかを論じています。

・平田オリザ.『芸術立国論』.集英社, (2001) 【3.8】

<文化の価値>
・ディヴィッド・スロスビー.『文化経済学入門 創造性の探求から都市再生まで』.日本経済新聞社, (2002)  【3.5】
・垣内恵美子編著.『文化財の価値を評価する 景観・観光・まちづくり』.水曜社, (2011)  【4.0】
文化財の価値を評価することは、政策立案や予算配分を適切に配分するために今後より広く行われる必要があります。同書で文化財の価値を直接的利用価値と間接的利用価値に分け、より具体的にオプション価値や存在価値、遺贈価値と捉えていたのはとても参考になりました。


<文化と復興>
ニッセイ基礎研究所.『文化からの復興 いわきアリオス』.水曜社, (2012)  【3.8】

<クリエイティブクラス論>
リチャード・フロリダ.『クリエイティブ資本論 新たな経済階級の台頭』, (2008)  【3.5】
都市の自由度、魅力がクリエイティブクラスを惹きつけるために重要になるという論です。


2013年4月20日土曜日

フーコーとパレーシア

 弁論術を駆使できることは必要である。しかし、真理を語るべき状況では、それを語らなければならない。

  「パレーシアがあるためには、真理を語る際に、相手に不愉快な思いをさせたり、相手をいらだたせたり、相手を怒らせたり、極端な暴力へと至ることもあるいくつかの行いを相手の側に引き起こしたりするリスクを開き、それを設定して、それに立ち向かうことが必要なのです。したがってそれは、暴力のリスクを冒す真理です。たとえばデモステネスは、『ピリッポス弾劾第一演説』のなかで、自分は率直に語ると言った後で、次のように付け加えます。すなわち、そのように率直に語る際、自分が口にしたことによって自分の身に何が怒るかわからないということが、私にはよくわかっている、と。」
 「すなわち、パレーシアはある種の形態の勇気を含意するということです」
 「つまり、真理を語ろうとするとき、話し相手との個人的な友好関係を危うくするだけでなく、自分自身の生命を危険に晒すことさえあるということです。」
 「パレーシアステースが万難に打ち勝って真理を語ることで自らの勇気を示すならば、そのパレーシアが差し向けられる者の方は、自分に対して真理が語られるのを受け入れられることによって自らの魂の高潔さを示さなければならないという協定、リスクを冒して真理を語る者とその真理を聞くことを受け入れる者とのあいだのこの種の協定が、パレーシア的ゲームと呼びうるようなものの核心にあるのです。
 したがって、ひと言で言うなら、パレーシアとは、語る者における真理の勇気、つまりすべてに逆らって自分の考える真理のすべてを語るというリスクを冒す者の勇気であると同時に、自分が耳にする不愉快な真理を真であるとして受け取る対話者の勇気でもあるということになります。
 ここから、パレーシアの実践が、弁論術の技法のようなものと完全に対立するということがおわかりいただけるでしょう。非常に図式的に言うなら、古代において定義され実践されていたようなものとしての弁論術は、確かに、語り方にかかわる一つの技術ですが、しかしそれは、語る者と彼が語る内容とのあいだの関係を全く定めることがありません。弁論術とは、それによって語り手が、自分が考えていることとはおそらく全く異なることを語りながらも、その結果として、相手にいくつかの核心を生じさせ、いくつかの行いをもたらし、いくつかの信念を打ち立てさせることになるような、技法、技術、手続きの総体のことです。別の言い方をするなら、弁論術は、語る者が自分の言表する内容を信じてそれに結びつけられることを全く必要としてはいません。よき弁論家、よき弁論術教師とは、自分が知っていたり信じていたり考えていたりするのとは全く別のことを語りながら、自分が語ったその内容、自分が信じてもいないし考えてもいないし知りもしないその内容を、自分が語りかける相手に考えさせたり信じさせたり知っていると信じさせたりすることのできる者のことです。弁論術において、語る者と彼が語る内容とのあいだの絆は断ち切られていますが、しかし弁論術は、語られたこと、それが差し向けられる相手とのあいだに、拘束力を持つ絆を打ち立てるのです。おわかりいただけるとおり、この観点からみて、弁論術はパレーシアの正反対です。パレーシアが含意するのは逆に、語る者と彼が語る内容との間の協力で明白な絆の設立です。というのも、語る者は自分の考えを表明しなければならないからであり、パレーシアにおいては自分が考えていることと別のことを語ることなど問題外であるからです。したがってパレーシアは、語る者と彼が語る内容とのあいだに強力で必然的で構成的な絆を打ち立てますが、しかし語る者と語りかけられる者との絆については、これをリスクのかたちで開きます。というのも、結局のところ、語りかけられる者は常に、語られる内容を受け取らないこともできるからです。彼は、それを不愉快に感じるかもしれないし、それを拒絶したり、しまいには自分に真理を語った者を処罰したり、その者に大して復讐したりするかもしれないということです。弁論術は、語る者と語られる内容とのあいだの絆を必要とせず、語られる内容とそれが差し向けられる者とのあいだの高速的な絆、権力の絆の設定を目指します。これに対し、パレーシアは逆に、語る者と彼が語る内容とのあいだの強力で構成的な絆を必要とし、語ると彼が語りかける相手とのあいだの絆が断ち切られる可能性を、真理の効果そのものによって、真理の不愉快さの効果によって開くのです。非常に図式的に次のように言うことにしましょう。弁論術教師は、他の人々を拘束する有能な嘘つきである、あるいは完全にそのようなものでありうる。これに対し、パレーシアステースは逆に、自分自身を危険に晒し、自分の他者との関係を危険に晒すような真理を、勇気をもって語る者であるだろう、と。」
  「すなわち、人々を統治することを可能にする合理的な言説と、強者の不正を非難する弱者の言説です。この組み合わせは非常に重要なものです。というのも、その組み合わせが政治的言説の母型を構成することになり、その過程でそうした組み合わせが再び見出されることになります。実は、ローマ帝政の時代、統治についての問題が提起された時、そしてそうした統治がひとりの君主の手に委ねられ、その人の賢明さが政治的行為における絶対的に根本的な要素ということになった時、その最高権力者である人は、ロゴス-つまり理性であり、合理的なことを語り、思考する仕方ですが-を用いることができなければならない、とされるようになります。しかし、その言説を支え、基礎づけるために、それを導き保証してくれる存在として、彼は他者の言説を必要とするのですが、その他者というのは必然的に最も弱い者、そうでなくとも彼よりも弱い者ということになり、また彼に立向かい、必要とあれば、彼がどんな不正を犯そうとしているかを言う危険を引き受ける者でなければならないのです。強者の不正について語る弱者の言説は、強者が人間理性にももとづいた言説によって人々を統治するための、必要不可欠な条件なのです。」
  「そして、その人間は、何をしなければならないのか。まさにその彼こそが、場合によってはたった一人で、誰の助けもなしに、理性の名において一人で語り、人々に率直に真実を語るのであり、その真実とは、人々を説得し、各人がしかるべく振る舞うように彼らを説得するような真実なのです。(中略)理想国家や、完璧な秩序や、可能な限りきちんと育てられた官吏たちや、まさしく適切に果たされているそれらの機能がいかに存在しようと、市民たちが国家の秩序内でふさわしく振る舞い、国家が存続するために必要な一貫した組織を彼らが構成するためには、その上の何かが必要なのです。誰かが市民たちに完全な率直さをもって語りかけ、理性と真実の言葉を持ち、それによって彼らを説得しなければならないのです。(中略)すなわちパレーシアとは、国家が統治されるために必要とされるものなのですが、また同時に、国家において、その市民たちが―いかに良く統治されていようとも―市民として正しくあるために、その魂に働きかけるべきものなのです。」

ミシェル・フーコー.『ミシェル・フーコー講義集成12 コレージュ・ド・フランス講義1982-1983年度 自己と他者の統治』.筑摩書房,(2010)
ミシェル・フーコー.『ミシェル・フーコー講義集成13 コレージュ・ド・フランス講義1983-1984年度 真理の勇気 自己と他者の統治Ⅱ』.筑摩書房,(2012)